港のヨーコと加計学園
本日の日経新聞『春秋』より。
冒頭から昭和のヒット曲『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』の歌詞が登場したので、「何だ?」と思いながら読んでいくと、
盛り場の遊び人は1年前のことも覚えちゃいまい。が、首相秘書官を務めたエリート官僚なら3年前の面会くらい思い出せはしないだろうか。学校法人「加計学園」の獣医学部新設をめぐり、愛媛県職員らが官邸を訪ねたときの文書が出てきたのに、柳瀬唯夫・現経済産業審議官は「記憶の限りでは」会っていないという。
加計学園をめぐる問題について、港のヨーコを絡めた皮肉がうますぎて、笑ってしまった。
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ
『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』はダウンタウンブギウギバンドの75年(昭和50年)のヒット曲。
作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童。
何だか懐かしくて、映像を探してみた。
現在アラフィフの私も、この曲がヒットした当時はまだ子どもだったので、記憶に残っていたのは、「アンタ、あのコの何なのさ!」と「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ~」ばかりだった。
でも、今あらためて見てみると、この歌詞、すごい。
主役のヨーコが行方不明という設定。
ヨーコの消息を求めて、横浜・横須賀界隈の盛り場を尋ね歩く男。
もしこれが小説だったら、この男が『語り手』ということになるのだろうけど、歌の中の男は終始『聞き手』で、語るのはもっぱら第三者の人たち。
歌の世界を外側から見ている我々は、しぜんと男の視点でヨーコの行方を追っていくことになる。
ヨーコと接触のあった人たちは、よく覚えてない、他を当たってくれ、とすげない態度ながら、断片的に語られるヨーコの様子は、危なっかしくて妙に引力がある。
そして、そんなヨーコに去られたこの男が、彼女にどうしようもなく惹かれているのがわかって、すごく切ない。
ヨーコのように、社会規範を足蹴にして悪びれないのは、はた迷惑に違いないけど、ある意味、筋が通っているようにも思える。
(加計学園問題に登場するエリート官僚よりも。。)
この世界観とストーリー、何よりヨーコの人物像をわずかな文字数で表現しきった、阿木燿子氏の才能に、今さらながら唸る。
スマホ時代のファンタジー
もうひとつ、港のヨーコに新鮮さを感じるポイントとして、今の時代、スマホもあるし、SNSで昔の知り合いから発見されてしまうことさえあって、ヨーコのようにぷいっと行方不明になるのは、容易なことではなさそうだ。
それに、便利になった分、『会えない時間が愛を育てる』余地や、美しき誤解の持続時間も、著しく減少しているのではないかと思う。
そう考えると、港のヨーコの世界観は、現代においてはファンタジーと言えるかもしれない。
しばしファンタジーに浸るきっかけをくれた加計学園問題に、ちょっとだけ感謝。